比之宮ってどんなところ?

比之宮の歴史

先史代~古代    BC8,000年頃~1191年
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総土地面積が1109haの比之宮には、4つの遺跡、4つの古墳、古文書等が見つかっており、古くから人が住んでいたことが確認されています。手がかりとなる遺跡は、現在の宮内地区と布施村の間で見つかった石原家の土器、田立神社の鳥居前、現在の高橋家周辺の行明、そして現在の西嶋家周辺、通称神田角で見つかっています。また、古墳は、現在の才ヶ峠、県道沿いの友田古墳、高橋家周辺の行明、また比敷地区の比敷1号があります。このうち、友田は明治期道路拡張の際見つかり、出土品から、裕福な豪族が住んでいたことを伺わせます。
710年には、田立神社が建立されました。927年にまとめられた延喜式神名帳に記載されている日本全国の神社2861社のうちのひとつであり、現在まで由緒正しい神社として人々に守られてきました。神社には、木製の狛犬が今も大切に保管されています。
言い伝え:比之宮には比敷という土地がありますが、その由来は神武天皇の逸話にあるという言い伝えがあります。神武天皇が、式村を目指して旅をしていました。「ここは式か?」と村人に聞いたところ、「式に非ず」と返答したため非式→比敷になったということです。
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中世(鎌倉・室町・戦国・安土桃山時代 - 1192年~1602年)
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公家から武士へ政権が変わった鎌倉時代の13世紀末期、元寇がおこり日本中の武士が日本海側に集結しました。今の江津あたりを警備していた小笠原氏は、戦での功績をあげたため、比之宮地区村之郷を与えられます。小笠原氏の本拠地である徳島から派遣された者が村之郷に山南城を構え、比之宮を食料基地として統治下におきました。これが石見小笠原氏のはじまりで、山南城は現在も遺跡として残されています。また、少なくともこのころから、福田家(屋号:石堂)は先祖代々小笠原氏の家来としてこの地に住み続いていることがわかっています。
16世紀中頃、小笠原氏は出雲守護代であった15代尼子氏に仕え、毛利と戦います。江の川を挟んだ対岸(現在の都賀本郷、長藤あたり)は毛利勢であり、江の川流域を見渡すことができる橋垰という土地は当時も見張り場として利用されていました。現在も展望台があり、江の川と周辺の集落を一望できます。
安土桃山時代、毛利家と繋がりの深い石見吉川氏の子孫が、出家して寺を開いたのが、現在も村の行事の中心的役割を果たしている西光寺の始まりです。
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近世(江戸時代 - 1603年~1867年)
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地下資源国であった石見地方は天領、浜田藩、津和野藩の支配下になりました。比之宮は浜田藩に属していましたが、2000石事件をきっかけに天領になります。
江戸時代は戦乱もなく人々はひたすら日々の生活に追われていました。夏は農業、冬は炭焼きが行われました。十王炉、丸山炉ではタタラ製鉄も少々行われていたようです。たびたび飢饉にも見舞われ、芋代官こと井戸平佐エ門によって芋が広められたのはこの頃です。井戸平佐エ門の石碑が現在も地域住民によって手入れされています。衣服は渋染めの木綿が一般的でした。主食は米が主でしたが飢饉にそなえて普段は雑穀を食べていました。
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現代(明治以降 - 1868年~)
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幕末期、幕府対長州の戦いで、村人は幕府側の人足として参戦しました。明治維新がおこり、幕藩体制から中央集権国家に移った頃の明治22年、比之宮地区の村々は現在隣接する邑南町布施と合併し、布施村が誕生しました。その頃の比之宮の人口は少なくとも185戸、514人以上でした。初代村長の野田氏は「道路と学校」を最優先に村づくりを進め、大正13年には、村之郷尋常小学校、のちの布施小学校ができました。この小学校は戦後の学制改革の際廃校となり現在は平地になっています。
昭和初期には電気がつき、すぐのちにラジオが広まります。満州事変、日中戦争がおこり、人々は滅私奉公、挙国一致の精神で統制経済の中に生きます。
昭和16年、太平洋戦争が始まり配給制度で人々は暮らしに耐えます。この頃には朝鮮人が村に移住してきました。
戦争末期、松根工場というものが比之宮にできました。松の根の油が燃料になるといって、海軍の兵隊が松の根を削り、炊いていたのです。「わしゃ幼ながらも兵隊さんがこがぁなことして(このようなことをして)しゃぁないか(大丈夫か)思うた」と地元の古老がいいます。また、集落民はグループに別れてムシオという木の皮を剥がす作業をさせられたといいます。兵隊さんの服をつくるんだといってグループ間で競争させられ、負組みは殴られるので必死になって剥いだと言います。「勉強ほど楽なものはない思うた。聞いとるフリすりゃぁえぇが」と地元の古老は回想します。
戦後、人々はひたすら耕し、家族を養いました。現在90歳の松子さんは、幼い子どもを柱に縛り付けて、春から秋にかけては畑に出て、冬は炭を焼き、とにかく働いたといいます。多くの人々は蚕を飼い衣服を紡ぎ、炭焼き、稲作で生計を立てていました。
昭和32年、比之宮は布施村を離れて、大和村に合併されます。その頃、比之宮は190戸ありました。多くの男性は、冬には出稼ぎに行くようになり、現在の新幹線や高速道路、トンネルの建設の労働力となりました。過疎化がはじまったのはこの頃で、平成5年には146戸、496人、平成15年には村には128戸、363人にまで減り、平成20年には314人にまで減りました。
比之宮の所属する大和村は平成16年に邑智町と合併し、美郷町となりました。
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比之宮の気象

比之宮地区の属する美郷町は、山陰地方特有の低温多湿型で、年間の平均気温は 13.5℃程度、降水量は 1,700mm 前後です。
江の川沿岸部に比べ、南部の高原地帯の方が平均気温が 1~2℃低く、最深積雪量も多くなっています。

美郷町の近隣地域の気象データ

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ばんりゅう君

ばんりゅう君
比之宮地区のイメージキャラクターの、ばんりゅう君です。
蟠龍峡伝説に登場する龍がモチーフとなっています。
地域のママさん、浜田あゆみさん作。       2013年4月20日誕生

蟠龍峡伝説とは?

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みさトーク

島根県美郷町の地域おこし協力隊がお送りする、IP告知端末を利用した地域密着型ラジオ。地域の素敵すぎる人々の声をお届け!

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アクセス


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  • JR三江線・石見都賀駅から車で約20分

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  • お問合せ先
  • 美郷町地域おこし協力隊
  • 比之宮事務所
  • 〒696-0711
  • 島根県邑智郡美郷町宮内568-4
  • Tel:0855-82-8444
  • Fax:0855-82-8432
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